2007年06月15日

水泉・眺望

■水泉と眺望
「水泉(すいせん)」とは、池や滝などの水を、「眺望(ちょうぼう)」は、遠くを見渡すこと。またはその眺めを指します。

本来、自然の中で水が流れるのは、山間や谷底などの低いところ。そのため、遠望を楽しみながら水と戯れるということはなかなかできません。
そのことから、「水泉(すいせん)」と「眺望(ちょうぼう)」は、山間と遠くを見渡すことの出来る環境という実現不可能な場所を表現することになります。

しかし、兼六園では、すぐそばに様々な水の競演を楽しみながら、遠くは内灘砂丘や能登半島、眼前には卯辰山から白山、さらに医王山を眺めることができ、「水泉(すいせん)」と「眺望(ちょうぼう)」の共存を実現しています。
そうしたことからも他に類をみない庭園として、兼六園は三大庭園の一つとして数えられているのです。


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2007年06月14日

人力・蒼古

■「人力」と「蒼古」とは
「人力(じんりょく)」と「蒼古(そうこ)」も「宏大」と「幽邃」の言葉の関係同様、矛盾する関係の意味を持ちます。
人の手が加われば、それは自然とはいえず、それは即ち自然が失われるという意味にもなります。しかし、兼六園は「小島洲渚のあるところ、往々橋を設けざるはなし」と言われるほど人の手が加わっていたにもかかわらず、「巨木樹林陰翳(いんえい)」していて、「所々に苔むしたるが其数を知らず」という状態を保ってきました。

現代においても、兼六園はその魅力を損なうことなく、訪れる人々に、園のすみずみまで人の手が入っていることを感じる一方で、さびた趣を感じさせてくれる庭園となっています。


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2007年06月13日

宏大・幽邃

■相反する?「宏大」と「幽邃」
六勝のうちの2つ、「宏大(こうだい)」と「幽邃(ゆうすい)」は相反する意味を持ちます。
「宏大(こうだい)」が、広く大きいこと、またはそのさまを表し、明るく開放的であることであることを指す意味を持つのに対して、「幽邃(ゆうすい)」は、静かで奥深い意味を持ち、「宏大(こうだい)」とは相反する意味となります。

兼六園を訪れたある老臣の拝観記には、広くて明るい庭であるとしながら、「偏(ひとえ)に山中のごとし」と付け加え、兼六園には宏大と幽邃が相反さず共生していると考えられてきたのです。


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2007年06月12日

六勝

もともとは金沢城の外郭として、城に属した庭だった兼六園は、六勝を兼備する庭園として、日本三名園の一つに数えられてきました。


■六勝とは
「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」の六つで六勝と言い、宋の時代の書物”洛陽名園記(らくようめいえんき)”には、「洛人云う園圃(えんぽ)の勝相兼ぬる能わざるは六宏大を務るは幽邃少なし人力勝るは蒼古少なし水泉多きは眺望難し此の六を兼ねるは惟湖園のみ」という記述があります。


■優れた景観の代名詞
その意味としては、

庭園では六つのすぐれた景観を兼ね備えることはできない。
広々とした様子(宏大)を表そうとすれば、静寂と奥深さ(幽邃)が少なくなってしまう。
人の手が加わったところ(人力)には、古びた趣(蒼古)が乏しい。
また、滝や池など(水泉)を多くすれば、遠くを眺めることができない。
そして、この六つの景観が共存しているのは湖園(こえん)だけだ。

と、伝えられています。


すばらしい景観を持した庭園として賞された湖園。
兼六園は、この湖園のように六勝を兼ね備えていると、奥州白河藩主・松平定信によりその名を与えられました。
このとき、文政5年の出来事といわれています。


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2007年06月11日

明治以降:兼六園の歴史

■兼六園の一般公開
長らく藩主の私庭とされてきた兼六園ですが、明治4年から日時を限っての公開を開始。
同7年、兼六園は全面的に市民へ開放され、それにあわせて多くの茶店が出店。同9年には兼六園観光案内組合が組織され、積極的な観光利用の歴史が始まります。

園内の山崎山麓にあった異人館と成巽閣を利用して、常設としては国内初の博物館である金沢勧業博物館が開館。同館は後に廃止されますが、その間に図書館と、金沢工業学校、後の石川県立工業高等学校が附属されるなど、大規模なものに拡張されていきました。

さらに同13年には、西南戦争における戦死者を慰霊するため「明治紀念之標」が建立されました。

■名勝から特別名勝へと
大正11年、国の名勝に指定された兼六園は、昭和60年には名勝から特別名勝へと格上げ、庭園の国宝とも言える最高の格付けを得ました。
平成6年より構想の樹立に入った「長谷池周辺整備事業」が、同12年に竣工。新庭園のなかに明治の初め取り壊された「時雨亭」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が再現されたほか、新たに二筋の流れを持つ庭園も整備され、これにより兼六園は一層の広がりをもつ庭園となりました。

開園以来、無料で24時間開放されていましたが、深夜何者かによって徽軫灯籠が破壊されるなどの事態が発生。
当時の灯篭を別の場所に保管する等の影響もあってか、維持、保存費用の捻出の為に昭和51年から後楽園や栗林公園に倣って有料とし、時間を限って公開されるようになりました。


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築庭以後:兼六園の歴史

■兼六園の始まり
兼六園の築庭は、城に面する傾斜地の部分からはじまります。
延宝4年、5代藩主・綱紀(つなのり)が、作事所を再び城内へ戻して自己の別荘を建て、その周りを庭園化したのが作庭の始期だと言われています。

築庭された頃は呼「蓮池庭(れんちてい)」と呼称され。
観月や観楓などの宴を楽しむ清遊の場として、大いに活用されていたそうです。

歴代藩主や老臣に深く愛された蓮池庭ですが、宝暦9年におきた大火で、一部を残し焼失してしまいます。その後、11代藩主・治脩(はるなが)により、復興され、安永3年、翠滝と夕顔亭、同5年に内橋亭を造営し、ほぼ整備は完了します。


■藩主の意向により変遷を遂げてきた「千歳台」
蓮池庭上部にある平坦な地を「千歳台(ちとせだい)」と呼びます。藩主によって様々な使い方をされ、千歳台はめまぐるしい変遷を遂げてきました。

藩政時代も半ばを過ぎた寛政4年、治脩は藩校「明倫堂(めいりんどう)」と「経武館(けいぶかん)」を創建します。
治脩の後を継ぎ12代藩主となった斉広(なりなが)は、先代が開校した藩校を移転させ、文政五年、その跡地に自己の隠居所「竹沢御殿」を造営。同年、斉広の依頼に応じた奥州白河藩主・松平定信によって現在の呼称である「兼六園」と命名されました。

斉広の没後の、幕末を目の前に迫った嘉永4年。
建坪4000坪、部屋数200を超える豪壮な御殿、竹沢御殿は、嫡子で13代 藩主・斉泰(なりやす)によって取り壊され、池を掘り広げたり新たに木を植えるなどして、千歳台を隣接している蓮池庭と一体化させ、一大庭園をつくりあげていきました。


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2007年06月10日

築庭以前:兼六園の歴史

■築庭以前より様々な施設に利用されてきた場所
天正11年、加賀藩初代藩主・前田利家(まえだとしいえ)が金沢城に入って間もないころ、小立野台地につづく平坦な土地に、利家の菩提寺『宝円寺(ほうえんじ)』と祈祷所『波着寺(はちゃくじ)』が建立されました。

その約30年後の元和6年、この二つの寺は、移転させられることとなります。

慶長6年、のちに二代将軍となった徳川秀忠(とくがわひでただ)の娘・珠姫 (たまひめ)が輿入れした際、江戸から付いてきた300人のお供のために、長屋「江 戸町」がつくられました。しかし、珠姫が没した後、江戸町の住人たちは江戸に戻り、長屋はまもな く取り壊され、その後の跡地には、建築や営繕を担当する役所・ 作事所が移築されました。

このように兼六園は、大昔から様々な施設に利用され、築庭以前から加賀藩ゆかりの土地と言っても過言ではないのです。


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兼六園の概要

■三名園の一つ
兼六園(けんろくえん)は、石川県金沢市にある日本庭園です。

江戸時代を代表する庭園として現代にその姿を残しています。国の特別名勝にもしていされ、その広さ約3万坪。

3万坪は平米数にして約99174平方メートル。あまりの桁の多さにいささか実感が伴わない数字ではありますが、広大な敷地面積をほこり、岡山市の後楽園(こうらくえん)と水戸市の偕楽園(かいらくえん)と並んで、日本三名園の一つに数えられています。

■その名の由来
この兼六園という名称ですが、これは六つの優れた景観、すなわち『六勝』を兼ね備えているというところから名づけられたといわれています。

江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としても有名で、金沢市の中心部に位置し、旧百間堀を道路とした百間堀通り(百万石通り)を橋で渡ったところの石川門から、金沢城を復元中の金沢城公園へと続いています。


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